医師探しに疲れたとき
一緒に考えてくれる医師を探すのは患者にとって大変であるが、とにかく、「会えばわかる」。 医師探しは不愉快なことが多いが「面接」だと割り切り、とにかく受診してみることである。 医師の対応で不愉快な目にあったあとは、発作的にどこかから飛び降り自殺したくなるのはわかるが、 「もう一軒だけ」医院・病院を訪れてほしい。この世の中でも、必ず、話をしっかり聞いて判断してくれる素晴らしい 医師は存在する。命を絶つ「その力で」、「もううんざり」とあきらめてから「もう一歩」、力を振り絞り、 まともな医師に辿りついてほしい。 「何十回、何百回」繰り返すのは「疲れる」が、それでも「もう一歩」を忘れないでほしい。 「決してあきらめない」などという言葉は日本語ではなく、「異文化の言葉」(英語)の”直訳”である。 「あきらめるな」「執念を持て」ならピンとくるが、中途半端な力のない日本語は聞くたびに猛烈に腹が立つ。 「”医師でないことに気づいていない”医師」にまともに対応しては無駄に疲れるだけで体調悪化につながる。 日本文化に合わない言葉など一切構わず、”自分に正直にさっさと諦めてよい”。 --「無駄な疲れ」は徹底して避ける。医師が治し方を知らない病気」は自分で自分を守らなければならない。-- ”ただ”、「もううんざり」「限界」と感じたときは必ず「もう一歩」前進してみよう。死ぬのは辿りついてからにしよう。 (たどり着いたら「先」が見える。やり過ごす方法が見えてくる。そんなもの見えなくてもいいが、死んでもいいが 別に医者のために死ななくてもよい。生きていてどうということもない。興味もない。ただ、「自分に対する 約束」だけは守ろう。”自分が決めた条件”がくるまでは「自分の意志の力」を振り絞って生きてみよう。 「必ず、人間、死ぬのだから」(待っていれば必ず死ぬ)。”安心して”、「もう一歩」歩を進めてみよう。
--医者などクソくらえ。「病人の苦痛を和らげること」ではなく「体調を悪化させること」に興味があるなら、 「遅かれ早かれ望みどおり絶対に死んでやるから黙って待ってろ」と心の中で唱え、次の一歩を踏み出してほしい ”本当の医師”は患者に「治したい」という気にさせる。そういう医師は確かに存在する。これだけは信じてほしい--
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関東で最も有名な私立大学病院のリウマチ医は、アメリカのポスドク時代に再発性多発性軟骨炎の患者を”見た”ことがあるそうで
「死体が出たら信じる」と言い切った。その後8年あまり経過したが、振り返って感じることは、「患者の報告」を真剣に聞きしっかり
研究していれば、これまでに何人の患者が助かったか、手術で命を落とさずに済んだことか。警察でも言わない言葉は一生許せない。
日本は何でも水に流すが、「水に流してよいもの」と「悪いもの」がある。
もし、この医師の言葉が「暴言」なら、百歩譲って、「笑い飛ばすことができる」。
「信じ込んでいる本音」であるから許せない。
そういう教育をしている日本リウマチ学会が許せない。(リウマチ内科医の「目的」は何なんだ?血液検査なのか?)
「膠原病リウマチ科は変わった医者が多い」と知って乍ら見て見ぬふりで放置している日本医学会も許せるものではない。
『再発性多発性軟骨炎』という病気は、海外では、「血液検査に全く異常が出ない」(”炎症反応”も正常)がよく知られており、
医科学者間のトップシークレットでも何でもなく、患者(※)が公共の場で当たり前の事として話題にできる”事実”である。
(「血液検査に異常が出ない」ゆえに、再発性多発性軟骨炎の診断がつく以前に「慢性疲労症候群」の診断を持つ患者が多い)。
※日本では「患者」というと医者は信用しないが、海外には「旦那が膠原病リウマチ科医」という患者もたくさん存在する
よく「遅すぎるということはない」とキレイごとを聞くが、医療に「遅すぎる」は”ある”。
80歳を過ぎれば骨髄移植が出来ないように「免疫」は容赦なく年齢を反映する。
発症から35年も放置すれば、若いときには使えた薬も効果が出ず薬剤アレルギーで使えなくなる
癌を発症して亡くなった慢性疲労症候群の友人は「日本開発・北米治験」の薬が間に合わなかった
日本は”医者も含め”「遅すぎる」。(医者はすべて政治・制度のせいにするが、政治だけの問題ではない)
「死体が出たら信じる」など言われたら、
生き物は必ず「死体」になるものであり、”寿命”は医者が決めるものではなく患者本人が決めるものである。
「”その時期が来たら”、望みどおり”必ず”死体になってやるから一報が届くことを心穏やかに待ってろ」
とことん医師探しに疲れたら、「心の中で」怒鳴り散らしながら大笑いすることである。
(笑えないときは「時期が来たら」を唱え自分の意志の力を信じる。患者を信じない医師は「必ず」一報を聞くことになる)
脅しではなく、人間の”怒り”と”忍耐”には限度がある。しかし最も厳しい”限度”は『環境』(現実)であり、
自分の病気など構っていられない環境「その時期」は、患者が望む望まないにかかわらず誰にでも”必ず”やって来る
(共倒れは社会問題でもある。「みかけ元気そうな病気」の場合、年々「病人」に負担がかかってくる)
患者は「覚悟して」生きている
その患者を更に追い詰めることが内科医達の目的なのか。
何のための「検査」なのか。検査の”目的”は何なのか。
「全身性炎症があってCRPやESRが上昇しない患者」は、
医者が診察室で、患者に対して放った言葉、”死体”と同じくらい「珍しいものではない」。
単に医者が調べようとしないだけであり、「アテにならない検査」をいつまでも盲信し続けるから馬鹿馬鹿しいほど大騒ぎになる。
日本の医学部で教育している内科医は「科学者もどき」であり、科学者「ではない」。(”科学者”は「自然現象」から学ぶ)。
沢山の税金を使って医学部では「迷惑な科学者もどき」を育てたいのか「役にたつ医者」を育てたいのか。はっきりしろ。
・「炎症反応」について(結核予防会): http://www.jata.or.jp/rit/rj/kekkaku/79ito309.pdf
Co-Cure-Japan, Administrator, 陰山理香
in Sep, 2016
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