昨今の「”東京の”大學病院・高齢者医療」・・・トシのせい・・・
「西洋医学」(西洋文化)の扱い方
昨今の「”東京の”大学病院・”教授”」の診察では「老人切り捨て」を感じることが多い。
「東京」「大学病院」「教授」となると、”政府の意図”の延長線上という事になる。
日本の場合、財政的に難しいとしても、単純に切り捨て「ではない方向性」でないと健全な生き残りは無理である。
「慢性疲労症候群」や「地方」を切り捨てたまま医療が前進しない、「そこ」が治療法の宝庫であると同じである。
「切り捨て」は誰でも出来る。「昨今の東京の大學病院・教授の考え方」も、おそらく、政治と密着した典型的な東大
発想なのであろうが、日本は他国とは事情が異なり、現に「人口減少」を起こしている限り、切り捨てではなく、
「一工夫」しない限り、日本の成立はあり得ない。(医師が協力的でない限り、家族の負担ばかり増える)
難しい問題ではあるが、その具体策を考えるのが「医者」であり、政治家に乗せられて安易な「切り捨て」を声高に
ごり押しするのは、もはや医者「ではない」。
ベーチェット研究班長(東大卒)が診察室で「(国家)予算」という言葉を何度も口にしたことを思い出す。
(要は”予算の為に西日本医療は認めない”。医者の言うことではない。「政治家の手先」に成り下がっている)
「財政面」をナントカするのは「政治家の仕事」。「命」を守るのが「医者の仕事」(政治家にナントカさせるのが”医師”)
医者と政治家が癒着関係にある限りどうやって国民の「命」を守るのか。
本末転倒も呆れるばかりであるが、”これ”が「東京医療」の実態である。
日本の将来の”先駆け”のような「地方」で、”東京医療の影響”がとても強いところでは、タクシーの運転手が「子供は
助けるが俺らは助けない」と嘆いている。”東京医療”は確実にその方向性に向かっている。”年齢による切り捨て”。
二言目には「トシだから」。数年前には”東京では”絶対に聞かなかった言葉である。)
このページを読んで、「東京医療」が全国の模範になるほど「日本一正しい」と言えるのだろうか?
”東京医療”(大学病院・内科)は「医療」と呼べるものではなくなっている。(人の命を何だと思っているのか・・・)
東京に暮らす人たちは、これでいいのか?
”東京医療”は地方にも大きく影響する。東京医療は「日本」の問題でもある。繰り返し尋ねる。「これでいいのか?」
*「鬆の入った”東京医療”」「全てにおいて安易でいい加減な東京」・・・東京医療の実態・・・
*東京の場合、「東大」さえ絡んでいれば、政治・メディア・人脈、すべてにおいて何かと「やりやすい」
(東大医学部は「利用される学校」になり下がっている)
このように、「東京」の実態は、日本で最も「安易な場所」(いい加減)であり、
距離的に”政治”に近く、”権威”の集まる東京の医療は、「もっとも鬆が入りやすい」
苦労と工夫を必死で続けざるをえない地方と違い、浮ついた東京、特に「医学界」のような浮世離れした社会的
地位にある人間が集まる「東京」は、ちょっとした事で簡単に変えることが出来、誰もが「東京だからが東京が正しい」
と信じている限り「誰も疑わない・気づかない」。いつの間にか白が黒になり、黒が白になっている。
”東京”さえ変える事が出来れば、一極集中、「右へならえ」の日本は、「すべて」変えることが出来る。
---非常に恐ろしいことである---
東京医療とは、「いつまでもCRP・ESRを盲信して地方医療を信じない」など「非常に排他的」で、
大學病院では、予算獲得の為か「政治家にはやたらと熱心に協力し、患者のことは全く考えない」
(医者ではない教授だらけ)
これも”東京医療”が「鬆だらけ」になる要因となっている。大変恐ろしいことである。
・・・これでも、東京医療が絶対なのか? これを絶対視したいのか?
医学界の権威、特に”東京の”「日本を代表する医師達」には、もっとしっかりして貰わなければ日本中が困る。
「いつの間にか利用されている医師」(人の良い権威)だけではなく、東京にいる医師一人一人が、一生「ぶれない
”軸”」(医師とはどういう職業なのか)を持ち続けない限り、日本はつぶれる。
--命・健康を守るのが「医師」。財政をなんとかするのは「政治家」。医師は政治家にナントカさせる立場にあり
政治家に利用される職業ではない。「医師」という立場に伴う正しい義務感を持ってほしい(noblesse oblige)--
東京の医師達・権威達には、もう一度、初心に立ち返ってほしい。
既に人口が減少している日本では「年齢による切り捨医療の方向性」は正しい選択ではない
東京の大学病院を見ていると既に「年齢による切り捨医療」は始まっている。
(二言目には「トシだから」。数年前には聞かなかった言葉)
このままで、本当にいいのか?
”日本社会”では、「西洋医学」(内科)の”使い方”を間違えている。
特に「内科」は”文化が引越してきたようなもの”で、生死感、職業の社会的地位、など、ありとあらゆる
ものが「違う」上に、外科のように”技術力”が「露骨に」”見える”という分野ではない。
日本では内科医は患者に「感謝しろ」「満足しろ」「求めるな」というが、西洋医学は「西洋”文化”の一部」であり、
そもそも西洋では「望む」ことは悪徳ではない。西洋には「諦念」という概念はない。「水に流す」という習慣も”ない”。
(ヨーロッパには「主よ、人の望みの喜びよ」という有名な楽曲-協会カンタータ-が存在するくらい、
「上(方向)」「望む・求める」は西洋文化にとって「普通」つまり「代表的な概念」の一つである)
西洋医学という”異文化”が日本に入ってきて、今や日本にとって西洋医学は「自分達の医学」になっている。
「違う基盤」(哲学)の上に成り立っている西洋医学(特に内科)に対し、いつまでも借り物の「ありがたや精神」
では永遠に正しく機能しない・・・一体、今、我々は「何時代」にいるというのか?・・・
西洋医学(内科)を正しく機能させるためには、日本の患者は医者(技術者)に対しもっと高いところを「望み」
「求めなければならない」。(現代社会において、日本でも一般社会では「当たり前の行為」)
”患者”が「どうありたいのか」、内科医にしっかり要求していかなければいけない。
内科医側も、それに応えるだけの「腕」を備えていないと困る。
医者に対してどうしても違和感がある場合、「日本の医者は”税金”が大きく絡んでいる」という現実を考えれば良い。
(公務員に対して「どう感じるか」。それを応用すればよい)
・・・いつまで「教授回診」など時代遅れなことをやっているのか。この世の最初にお医者様・医学様ありきなど
「あり得ない」。まず「患者」ありき。医学は単なる「社会の一部」であり何ら特別は社会ではない
「高齢者医療」に関しても、一部政治家やラクしたい医者の魂胆ではなく、「患者はどうありたいのか」。
それを手伝うのが医師という職業である。このまま、(一部の大学医学部教授達を除き)、「東京の大學病院教授陣」の
”流れ”を見て見ぬふりで、「トシだから」と年齢で切り捨てられ見殺しにされて、それでいいのか?
一体、何が根拠で、おかしな風潮が”東京の大學病院で”完成しつつあるのか。
単なる「医者の手抜き策」ではないか。慢性疲労症候群といい、おかしいではないか。
・・・こういう事が起きるのが「東京医療」である。これのどこを「絶対視」すれば良いのか?
(医者が政治家側に立ち政治絡みの「いい加減で信用出来ない医療」をしているのは「東京医療」である)
地方は東京の言動など意に介さず、これまで通り、どんどん前進して日本を引っ張ってほしい。
問題は「絶対権力を持つ”一部の”東京医療が日本全体の足を引っ張っている現実」と「東京に暮らす人達」である。
医療も一般社会である限り、「患者(利用者側)」が「より良い医療を求めて」初めて進化する。
あなたの病気のあなたの症状について、もっともよく知っているのは「あなた」(患者)であり医師ではない。
医療の主権は「患者」にある。
政治と同じく「患者が」変えていかなければ、いつまでも医者にお任せしていると、一部の権力者の都合の良いように
制度まで変えられ、日本全体がとり返しのつかない被害を被ることになる。
「年齢による切り捨て医療」は、既に人口減少を引き起こしている日本にとって「おかしい」。
高齢者に理解のない医師は家族(若い者)にも大変迷惑な現実をもたらす。
医者に死期を決める権利はない。何もかも「おかしい」。
「年をとる」という万人に訪れる現象の詳細を知ることが出来るからこそ、若い人たちに貢献出来るのではないのか?
(生活習慣病・免疫ほか、予防・治療)
これまでより更に真剣に高齢者を診察し(沢山患者がいるほど有利)、トシをとるメカニズムをしっかり解明し、実際に
「予防する」という成果を上げ、それを世界に発信し、世界中の人間の役に立とうとすることが「医者」ではないか?
目の前の現実に背を向け、「トシだから」と言い訳をして何もせず逃げ出すとは何ごとか。
・・・「男だから」「女だから」「XX人だから」という理由で医療差別、診療放棄、診療拒否がまかり通るのか?・・・
東京の一部の大学病院のおかしな風潮はとても「医者の発想」とは思えない。
「千載一遇のチャンス。俺たちがぼろもうけして社会還元で国を潤すから安心して待ってろ」くらい言えないものか。
日本の場合、医者は「税金」が大きく絡んでいるだけに、公務員と同様、「医者の泣き言」だけは聞きたくない。
西洋医学(内科)など「異文化」(そのもの)を異文化の地において正しく扱うのは不可能に近い(何もかも「違う」)。
”人権”や”尊厳”が浸透しているプライドの高い本場(西洋)の高齢者と同じとはいかないとしても、少なくとも、
日本の高齢者は、政治家の下らない「煽り」に乗せられず、これまで通り、決して遠慮・萎縮することなく、
人権・尊厳と「自信」をもって医師に接することを願う。
「超少子高齢化」という現象を引き起こしたのは「政府」であり(政策の失敗)、現存する高齢者が責められる必要性は
かけらもない。(政府は、医師まで巻き込んで問題をすげ替えようとしている)。
「政策の失敗」である限り、現存する高齢者は、むしろ「下らない失敗策に税金を使いやがって。カネ返せ」と言える立場
である。堂々と自分の人生を貫かれることを祈念する。
政治家の言うことを真に受け、自分で考えることもなく腰巾着に成り果てようとしている東京の医師達には何度でも問う。
問診票に書かれた数字を見て「トシだから」。本当にそれでいいのか?それで何が生まれるのか?
一般論ではあるが、ここにあげている「医師」は主に「内科医」のことであり、技術力が露骨に「結果」に反映する外科には
おかしな医師は少ない。むしろ、世界が敬意を持つ「技術者魂」を持つ外科医が日本には多い。
内科の医師達は自分たちも「技術者である」という自覚はないのであろうか?
「技術者」として考えれば、「文化」や「年齢」に関係なく、医師自身「どうあるべきか」おのずと答えが出るであろうに。
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