医師探し・医師たるもの・最高学府たるもの

 

     下記、いくら何でも「”子供のころ” (1979)から、患者一人でも、家族の目の前でも、診察室で何十年も

     同じ事が起き続ける」ということは、日本には「本当におかしな対応をする内科医が殆ど」ということである

 

       一緒に考えてくれる医師を探すのは患者にとって大変であるが、とにかく、「会えばわかる」。

       医師探しは不愉快なことが多いが「面接」だと割り切り、とにかく受診してみることである。

       医師の対応で不愉快な目にあったあとは、発作的にどこかから飛び降り自殺したくなるのはわかるが、

       「もう一軒だけ」医院・病院を訪れてほしい。この世の中でも、必ず、話をしっかり聞いて判断してくれる素晴らしい

       医師は存在する。命を絶つ「その力で」、「もううんざり」とあきらめてから「もう一歩」、力を振り絞り、

       まともな医師に辿りついてほしい。

       「何十回、何百回」繰り返すのは「疲れる」が、それでも「もう一歩」を忘れないでほしい。

       「決してあきらめない」などという言葉は日本語ではなく、「異文化の言葉」(英語)の”直訳”である。

       「あきらめるな」「執念を持て」ならピンとくるが、中途半端な力のない日本語は聞くたびに猛烈に腹が立つ。       

       「”医師でないことに気づいていない”医師」にまともに対応しては無駄に疲れるだけで体調悪化につながる。

       日本文化に合わない言葉など一切構わず、”自分に正直にさっさと諦めてよい”。

       --「無駄な疲れ」は徹底して避ける。医師が治し方を知らない病気」は自分で自分を守らなければならない。--

       ”ただ”、「もううんざり」「限界」と感じたときは必ず「もう一歩」前進してみよう。死ぬのは辿りついてからにしよう。

       (たどり着いたら「先」が見える。やり過ごす方法が見えてくる。そんなもの見えなくてもいいが、死んでもいいが

       別に医者のために死ななくてもよい。生きていてどうということもない。興味もない。ただ、「自分に対する

       約束」だけは守ろう。”自分が決めた条件”がくるまでは「自分の意志の力」を振り絞って生きてみよう。

       「必ず、人間、死ぬのだから」(待っていれば必ず死ぬ)。”安心して”、「もう一歩」歩を進めてみよう。

 


       --医者などクソくらえ。「病人の苦痛を和らげること」ではなく「体調を悪化させること」に興味があるなら、

       「遅かれ早かれ望みどおり絶対に死んでやるから黙って待ってろ」と心の中で唱え、次の一歩を踏み出してほしい

       ”本当の医師”は患者に「治したい」という気にさせる。そういう医師は確かに存在するこれだけは信じてほしい--

 


 

           お世話になっている、いつも患者に最善を尽くしてくれている医師には心から感謝しており

           このようなことを書くのは申し訳ないが、今の日本には上記のような下らない医師が99.9%。

           医学教育の失敗を意味している。多額の税金を使って医学部大学では何を教育してきたのか。

   

           「まっとうな医学部」は、”目の前の医師”を通して見える「出身校の教育」から伺い知ることができ、

           その存在に心から敬意を抱いているが、これも申し訳ないが、「日本の大学病院」は一体何を

           育てているのか。

           国立・私立とも「エリート」と評される学校ほど勘違いのクズを輩出するのは気のせいだろうか?

           教育崩壊だか何だか知らないが、学校のブランドで医師を評価する患者側にも責任がある。

              最高学府の医学部教授がぬけぬけと何が「教育崩壊」だ。--最高額の年金受給者である--

              医学という”命”を扱う分野である限り、自分の「命」をかけて何とかするのが教授の責務であろう。

          --- コクリツ大学では、自分の担当教授が少しでも無責任な言動をしたら、”学生が”「税金ドロボウ」と
          教授を徹底的に突き上げたものだが、”医学部”では、そういうことも起きないのだろうか・・・
          学生時代から、教授・学生とも、それほどの温床にいて、どうやって一般社会に耐える医師を育てるのか。

              政府が意図的に配置したのであろう、不忍池を挟んで双極の校風と教育目的を持ち、

              「校医」の殆どが代々最高学府医学部出身者、過去の学長までもが最高学府出身者の時代を

              持つことから、あえて痛いところばかり突いているいるのかもしれないが、それを見て、

              事情を何も知らない関東の私立が、自分たちの憧れか何か知らんが「最高学府が苛められている」

              など『患者のことは全く無視して』呆れたお子ちゃまぶりを発揮するから関東医療は一向に進まない。

              元はといえば「自分たちが被害者」と全国の同僚の同情集めをした最高学府関係者の恥ずべき責任。

              (東京の国立どおしは「談合医療」、東京全体は「東大傘下」、関東全体はまるで「鎖国医療」である)

          

           そもそも、「最高学府の医学部」に対しては、一般の患者があまりにも大人しすぎる。

           私立の大学病院では、受付や診察室の医師に対して1時間も怒鳴っている患者がいても、

           最高学府の付属病院では、そういう患者は「見たことない」。(税金を多く使っているのはどちらだ?)

           ”中央集権の日本”で、患者が「税金を使った学校」に遠慮しているのは本末転倒、

           最高学府の医学部とても決して望むところではないであろう。

           (最高学府医学部の教育は”非常”に厳しい。ただ臨床の下手クソが多いだけである

           つまり、”臨床”に関しては、「現実を知らずに」ゴタクばかり並べている)

           ---臨床の上手いのは大抵よその学校に引き抜かれている---

           「臨床」とは「理屈」(頭)ではない。(英語で”臨床”は「Performanace」である)

           「臨床が下手」「経験もない」(否定するから)ではどうしようもない。

           下らないゴタクを並べている暇があったら、”世界水準で猛烈に進んでいる西日本臨床”からしっかり学び、

           「今、現在ある薬でナントカ臨床をする」。「そこ」から新しい発見は必ずある。

           そもそも、我々先のない老人は、再生医療のように時間のかかるものには縁がない。

           (その頃には寿命が尽きてこの世にいない)。

           ”一億総活躍”というなら、”医者なら”、「今現在どうにもこうにも出来ず困っている、再生医療の

           ようなものを待っていられない病人をナントカしてもらわないと困る」

           ※辞書では[臨床医: clinician] 

           また、最高学府医学部は、他のコクリツに比べ、別格の恐ろしい額の税金を遣っていながら、いつまで

           「もっとカネがあれば良い研究ができる」とか「現実離れしたガキのようなこと」を言い続けるのか

           聞いていて恥ずかしい。良い研究をするところはカネがなくても出来る。

           『現実』としっかり対峙しない限り「先」は見えてこない。

           人口比では「臨床は東京」が有利だそうである。

           まず”猛烈なスピードで進む”「西日本臨床」を否定せず「学ぶところ」「ついていくこと」から始めてほしい。

           「今ある薬で」”対策”に集中、工夫していれば、既存の薬の別な効果も含め、それそのものが必ず大きな

           発見と貢献につながる。

           「全国の患者のために」プライドを捨て、京大ノーベル賞受賞者に対する金銭的バックアップとともに、

           最高学府が”出来ること”に集中してほしい。「さすが」という部分を見せてほしい。

 

 

Co-Cure-Japan, Administrator, 陰山理香

in Sep, 2016

 


 

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